東京大空襲は戦争犯罪だった~横浜裁判~ 飯田たけしの「名もなきサムライたち」2016#3
横浜地方裁判所の前から、お送りしております。
このあたりは戦後、米軍が上陸してきて、かなり接収された場所です。焼け残った一部の建物は、米軍が荷物を路上に放り出して自分たちが使い始め、焼け野原になった場所は、かまぼこ型の兵舎を建て、アメリカ第8軍の将兵が司令部もろとも、かなり長期間占領していた地域です。
東京裁判が始まる4カ月前に、この横浜地裁でももう一つの軍事裁判が始まっていました。東京裁判がA級戦犯を裁く場であったのに対して、横浜はB・C級戦犯を裁く場として、ある意味、東京裁判が始まる前の「テストケース」として始まりました。B・C級戦犯というのは皆さんもご存じのように、捕虜に対する虐待がメインです。捕虜収容所において虐待があったとか、南京事件に絡んだりとか、戦場での不法行為や暴力行為など、一般的に言われる戦争犯罪そのものが裁かれました。
この横浜国際軍事法廷で裁かれた人たちは、B・C級戦犯として起訴された方々のうちの2割。死刑という判決が出た方は100名を超えます。シンガポールやマニラなど、横浜以外での裁判を含めると、千名以上が裁かれて刑場の露となって散ってゆきました。
この横浜でわずか数日の審理、一審のみで上訴審もなく、そしてまた一方的に、例えば、捕虜になっていた米軍の兵士たちが供述した調書だけを証拠として、一切の「宣誓」もしていない。法廷で(証人が)証言しているわけでもない。むちゃくちゃで整合性もまったく取れていない供述だけで、多くの日本人がここで死刑の判決を受け、処刑されました。
後ろに見えている建物は、今は新しい横浜地方裁判所の建物になっていますが、昭和4年に立てられた元の横浜地裁を復元したものです。なぜ横浜で裁判が行われたかというと、第8軍が横浜にいたということもありますし、今では使われることのない陪審用の大法廷があったのです。
日本でも、陪審制の裁判制度が敷かれていたことがありました。陪審制を選ぶか、普通の裁判を選ぶか、裁かれる側の任意となった場合に、陪審制はどうしても重罪になってしまう傾向があるため、実際にはその陪審用の大法廷は、昭和の途中からは使われなくなりました。その大法廷を使って、戦争犯罪が裁かれたということです。
ここで裁かれた内容は、数多くの欺瞞と、「裁判」という名に値しない報復の場でした。
しかし、ここで堂々と戦われたこともあります。
東京裁判で使うことを許されなかった、日本の都市に対する米軍の無差別爆撃。
あるいは、広島や長崎に対する原子爆弾の投下。
これらはすべて民間人に対する攻撃であり、当時のハーグ陸戦条約に反する無差別爆撃で、国際法違反でした。
米軍の行った行為(無差別爆撃)が、国際法違反に当たるのだということが、実はこの横浜で行われた岡田資(おかだたすく)中将の裁判で、立証されております。
他の裁判でも、ございました。西部軍管区(中国・四国・九州地方を管轄区域とする大日本帝国陸軍の軍管区)で、B29の搭乗員十数名が処刑されていますが、それは当時の国際法と日本の国内法に基づくものでした。
しかも、アメリカ軍の爆撃機が小学校を爆撃したとか、
一発爆弾を命中させたら子供たちが吹き飛びましたとか、
そのあとさらに機銃掃射して殺していますとか、
そういう証言をえらそうに、「我々は勝ったんだ、お前たちはこんなに弱かったんだ」というふうに、とくとくと証言した、民間人を虐殺した明白な戦争犯罪だけに限って、当時の法律に基づいて銃殺刑に処したわけです。
どう考えても無罪になるしかないようなものもあったのですが、それを司法取引を持ちかけられて、重労働の判決が出ています。
もしも彼らがそこで「これは国際法に違反していた行為を裁いたのだ」と、堂々と司法取引に応じなかったらどうなったかというと、おそらく無罪か死刑のどちらかだったでしょう。
それを、あえて処刑の道も選びながら、ここで岡田中将は「国際法違反の無差別爆撃、戦争犯罪が米軍によって行われたのだ」ということを、この横浜裁判の法廷で立証してしまったのです。
岡田中将は当時、東海軍管区司令官でした。日本には偏西風が流れていますので、大阪や兵庫で爆撃をしたB29が撃墜されると、風(偏西風)に流されて東海軍管区(中京方面)に墜ちてくるのです。それを捕虜にして事情聴取したのです。
神戸や大阪でのB29の戦略爆撃というのは、実際はどういう人を相手に行われたのか、どういう結果だったのか。もうアメリカ軍も実際に携わっている人間以外は、まったく知らなかった。
「我々はナチスドイツと組んでいる、悪魔のような日本をやっつけるための、正義の戦いを行ったのだ」と、彼らは思っていました。
ところが、実際に米軍がやっていたことは何だったかというと、日本の軍人を堂々と攻撃する戦争ではなく、日本の都市を焼け野原にし、女性や子供を殺すことを目的とした軍事作戦をやっていたということが、この横浜裁判ではっきりわかってしまったわけです。
そのことを、この横浜の法廷で証言されて立証されてしまった時、ウイングマークをつけている陸軍航空隊とおぼしき軍人たち、彼らは「正義の戦争をした」と信じていたのでしょうが、その彼らはもう真っ青になってしまいました。法廷は声もなく、静まりかえってしまったといいます。
しかし、論点をすり替え、論点をすり替え、岡田中将は処刑されてしまいましたし、それを立証しようと思えばできた裁判では司法取引を持ちかけて、「なかったこと」にされてしまいました。
この時のことが、いま、大きな問題点になってきていると思います。
「広島・長崎の原爆投下や、日本に対する都市空襲がアメリカによる戦争犯罪だったのではないか」ということは、戦後50年、60年という節目がくるたびに、世界からそのような声は出てきてはいました。
あの爆撃はいったい何だったのか。
広島・長崎は戦争犯罪だったのではないだろうか。
それを全部つぶすために、アメリカは「南京事件」の話をぶり返し、日本の戦争犯罪の話をぶり返し、従軍慰安婦だ何だということを持ち出さないと、アメリカの正義というのはもう保てなくなってきている、ということだと思うのです。
私たちは、この横浜裁判の法廷で立証された、アメリカ軍による戦争犯罪というものを、もう一度、重く受け止めるべきだと思います。彼らアメリカは、いまだに中東において、同じことをしています。
戦術爆撃というのは、例えば敵の部隊や戦車、軍需産業、あるいは歩兵部隊や戦闘部隊に対して攻撃することは、これは今でも認められていることです。しかしそうではなくて、民間の指導者や、それを殺すために周囲を皆殺しにするとか、都市を爆撃して一般の人を何十万人も殺すようなことを、アメリカ軍はいまだにやっているわけです。
彼らのやっている先に、何か見えるのか。
平和が見えるのか。
正義が見えるのか。
私たち日本人は「正義」という目がくらまされていますけれども、横浜裁判の法廷で岡田資中将が自分の死刑を覚悟して立証された、アメリカの戦略爆撃の戦争犯罪、これをもう一度日本人は思い出す必要があると思います。
日本人は「奴隷の平和」から抜け出す必要があり、アメリカに対してもしっかりと言うべきことを言わねばならない時代が、来たのではないかと思います。
アメリカは、自分たちの戦略爆撃を正当化するために、「南京大虐殺事件」をでっちあげました。
日本の戦争犯罪も、いろいろとでっちあげました。
アメリカによって開戦に追い込まれたことも、すべて隠蔽され、結果としてはアジアを解放した日本のプラスの面はすべて忘れ去られて、私たち日本人は今、奴隷の位置におり、また「悪魔の国である日本なら、つぶしてもかまわない」という、中国や北朝鮮による報復の根拠にもなっています。
この横浜裁判での岡田中将の戦いから、もう一度日本人はその遺志をくみ取って、世界に発信するべきではないでしょうか。
【DVD】「明日への遺言」 Amazonプライムで映画を観る
第二次世界大戦終了後、元東海軍司令官・岡田資中将は、名古屋空襲時における一般民衆への無差別爆撃を実行した米軍搭乗員処刑の罪に問われ、B級戦犯として裁判にかけられた。岡田中将の弁護人であるフェザーストンと相対するバーネット検察官、裁判長のラップ大佐をはじめ、裁判を行うのは戦勝国アメリカ。そんな中、岡田中将は、自己の信念を曲げることなく、すべての責任は指示を下した自分にあると主張。法廷闘争を法における戦い「法戦」と呼び、飽くまで戦い抜こうと立ち向かう。部下を守り全責任を負う覚悟を見せる岡田中将の潔い姿は、次第に、敵国の検事や裁判官をはじめ法廷内にいるすべての人を魅了し心動かしていく・・・・・・。(C) 2007 『明日への遺言』製作委員会